◆本田竹広さんが亡くなった ― 2006年01月06日

あけましておめでとうございます。
平成18年初めて書きます。
一昨日本田竹広さんが亡くなりました。 享年60才。
ジャズ好きの間ではその名は広く知れわたっており、その突然の訃報にしばらく絶句してしまいました。
20才の頃ですからもう25年も前のことです。大学1年になった私は友人と一緒に「呼び屋さん」活動を手伝っていました。
人口17万程度の中堅地方都市である岩手県盛岡市で、ジャズ、フュージョン系のミュージシャンのコンサートを催し、会場手配からチケット販売まで手がける。大学の先輩方何人かが行きつけのスナックのママさん達と始めたというこの活動はジャズ系というマイナーなマーケットでのみ成立するもので、みなさんが想像する「コンサート」のような大きいものでなく公民館の200人程度の小ホールで行われるようなこじんまりとしたものです。
ジャズ系ミュージシャンのギャラは想像以上に安く、当時かなりのビッグネームであった本田竹広率いる「ネイティヴ・サン」でさえ確か20万円だったと記憶しております。会場は「岩手教育会館小ホール」。チケットを作るのですが今のようにパソコンがある訳ではないのであまりカッコいいものはできません。 市内のプレイガイドにおいてもらったり、ジャズ喫茶にポスターを貼ってもらったり。売れ残りを友人に頼み込んで買ってもらったり、近くの短大に売りに行ったりした思い出もあります。マイナーなジャンルの小さいマーケットゆえにできたことでした。「ネイティヴ・サン」は当時人気のジャズ系フュージョン・バンド。編成は本田竹広(key)川端民生 (alt sax)を中心に、Dr.G.Bassのリズムセクション。16ビートにのせて弾きまくる本田のピアノは、背筋がゾクゾクするほどの日本人離れしたものでした。
アフロ・ヘアーにヒゲという外見もあいまって、20才の若僧に強い衝撃を与えたことを、本田竹広の死はくっきりと思い出させてくれました。また、この10年は、脳梗塞で倒れること2度。片手にマヒが残る状態で必死にピアノに向かう姿は、かつての豪快なスタイルの時とはまた違う新たなファンを広げていました。私も1年ほど前に行きつけのクラブでライヴを聴き、その驚異的な回復力に、彼の音楽(仕事)に対する執念を感じたものでした。
その本田さんが・・・。享年60才でした。合掌。
デビューアルバムのA面1曲目。まさにこの曲!イントロからしてメチャ乗ってしまいます。この曲が岩手教育会館で演奏された時、そのドライブ感に失神しそうなくらい興奮したのを憶えています。後に自分(下島)のバンドでこれをやることになり練習したのですが、音は確かに同じなのにドライブ感がまるで違うことにガクゼンとしたことも。本田竹広ここにあり、の一曲です。
NATIVE SON「バンプ・クルージング」
◆NATIVE SON
1.Bump Crusing, 2.Heat Zone, 3.Breezin' & Dreamin', 4.Wind Surfing, 5.Whispering Eyes, 6.Twilight Mist, 7.Super Safari, 8.Whispering Eyes(reprise) Takehiro Honda(kbds,perc)、Kohsuke Mine(ts,ss)、Motonobu Ohde(el-g)、Tamio Kawabata(el-b)、Hiroshi Murakami(ds) DAMIAO GOMES DE SOUZA(cuica)
79年アメリカ発売盤 ヒットチャート上位にランクされる
平成18年初めて書きます。
一昨日本田竹広さんが亡くなりました。 享年60才。
ジャズ好きの間ではその名は広く知れわたっており、その突然の訃報にしばらく絶句してしまいました。
20才の頃ですからもう25年も前のことです。大学1年になった私は友人と一緒に「呼び屋さん」活動を手伝っていました。
人口17万程度の中堅地方都市である岩手県盛岡市で、ジャズ、フュージョン系のミュージシャンのコンサートを催し、会場手配からチケット販売まで手がける。大学の先輩方何人かが行きつけのスナックのママさん達と始めたというこの活動はジャズ系というマイナーなマーケットでのみ成立するもので、みなさんが想像する「コンサート」のような大きいものでなく公民館の200人程度の小ホールで行われるようなこじんまりとしたものです。
ジャズ系ミュージシャンのギャラは想像以上に安く、当時かなりのビッグネームであった本田竹広率いる「ネイティヴ・サン」でさえ確か20万円だったと記憶しております。会場は「岩手教育会館小ホール」。チケットを作るのですが今のようにパソコンがある訳ではないのであまりカッコいいものはできません。 市内のプレイガイドにおいてもらったり、ジャズ喫茶にポスターを貼ってもらったり。売れ残りを友人に頼み込んで買ってもらったり、近くの短大に売りに行ったりした思い出もあります。マイナーなジャンルの小さいマーケットゆえにできたことでした。「ネイティヴ・サン」は当時人気のジャズ系フュージョン・バンド。編成は本田竹広(key)川端民生 (alt sax)を中心に、Dr.G.Bassのリズムセクション。16ビートにのせて弾きまくる本田のピアノは、背筋がゾクゾクするほどの日本人離れしたものでした。
アフロ・ヘアーにヒゲという外見もあいまって、20才の若僧に強い衝撃を与えたことを、本田竹広の死はくっきりと思い出させてくれました。また、この10年は、脳梗塞で倒れること2度。片手にマヒが残る状態で必死にピアノに向かう姿は、かつての豪快なスタイルの時とはまた違う新たなファンを広げていました。私も1年ほど前に行きつけのクラブでライヴを聴き、その驚異的な回復力に、彼の音楽(仕事)に対する執念を感じたものでした。
その本田さんが・・・。享年60才でした。合掌。
デビューアルバムのA面1曲目。まさにこの曲!イントロからしてメチャ乗ってしまいます。この曲が岩手教育会館で演奏された時、そのドライブ感に失神しそうなくらい興奮したのを憶えています。後に自分(下島)のバンドでこれをやることになり練習したのですが、音は確かに同じなのにドライブ感がまるで違うことにガクゼンとしたことも。本田竹広ここにあり、の一曲です。
NATIVE SON「バンプ・クルージング」
◆NATIVE SON
1.Bump Crusing, 2.Heat Zone, 3.Breezin' & Dreamin', 4.Wind Surfing, 5.Whispering Eyes, 6.Twilight Mist, 7.Super Safari, 8.Whispering Eyes(reprise) Takehiro Honda(kbds,perc)、Kohsuke Mine(ts,ss)、Motonobu Ohde(el-g)、Tamio Kawabata(el-b)、Hiroshi Murakami(ds) DAMIAO GOMES DE SOUZA(cuica)
79年アメリカ発売盤 ヒットチャート上位にランクされる
◆本田竹広さんが亡くなった ― 2006年01月06日
あけましておめでとうございます。
平成18年初めて書きます。
一昨日本田竹広さんが亡くなりました。 享年60才。
ジャズ好きの間ではその名は広く知れわたっており、その突然の訃報にしばらく絶句してしまいました。
20才の頃ですからもう25年も前のことです。大学1年になった私は友人と一緒に「呼び屋さん」活動を手伝っていました。
人口17万程度の中堅地方都市である岩手県盛岡市で、ジャズ、フュージョン系のミュージシャンのコンサートを催し、会場手配からチケット販売まで手がける。大学の先輩方何人かが行きつけのスナックのママさん達と始めたというこの活動はジャズ系というマイナーなマーケットでのみ成立するもので、みなさんが想像する「コンサート」のような大きいものでなく公民館の200人程度の小ホールで行われるようなこじんまりとしたものです。
ジャズ系ミュージシャンのギャラは想像以上に安く、当時かなりのビッグネームであった本田竹広率いる「ネイティヴ・サン」でさえ確か20万円だったと記憶しております。会場は「岩手教育会館小ホール」。チケットを作るのですが今のようにパソコンがある訳ではないのであまりカッコいいものはできません。 市内のプレイガイドにおいてもらったり、ジャズ喫茶にポスターを貼ってもらったり。売れ残りを友人に頼み込んで買ってもらったり、近くの短大に売りに行ったりした思い出もあります。マイナーなジャンルの小さいマーケットゆえにできたことでした。「ネイティヴ・サン」は当時人気のジャズ系フュージョン・バンド。編成は本田竹広(key)川端民生 (alt sax)を中心に、Dr.G.Bassのリズムセクション。16ビートにのせて弾きまくる本田のピアノは、背筋がゾクゾクするほどの日本人離れしたものでした。
アフロ・ヘアーにヒゲという外見もあいまって、20才の若僧に強い衝撃を与えたことを、本田竹広の死はくっきりと思い出させてくれました。また、この10年は、脳梗塞で倒れること2度。片手にマヒが残る状態で必死にピアノに向かう姿は、かつての豪快なスタイルの時とはまた違う新たなファンを広げていました。私も1年ほど前に行きつけのクラブでライヴを聴き、その驚異的な回復力に、彼の音楽(仕事)に対する執念を感じたものでした。
その本田さんが・・・。享年60才でした。合掌。
デビューアルバムのA面1曲目。まさにこの曲!イントロからしてメチャ乗ってしまいます。この曲が岩手教育会館で演奏された時、そのドライブ感に失神しそうなくらい興奮したのを憶えています。後に自分(下島)のバンドでこれをやることになり練習したのですが、音は確かに同じなのにドライブ感がまるで違うことにガクゼンとしたことも。本田竹広ここにあり、の一曲です。
NATIVE SON「バンプ・クルージング」
◆NATIVE SON
1.Bump Crusing, 2.Heat Zone, 3.Breezin' & Dreamin', 4.Wind Surfing, 5.Whispering Eyes, 6.Twilight Mist, 7.Super Safari, 8.Whispering Eyes(reprise) Takehiro Honda(kbds,perc)、Kohsuke Mine(ts,ss)、Motonobu Ohde(el-g)、Tamio Kawabata(el-b)、Hiroshi Murakami(ds) DAMIAO GOMES DE SOUZA(cuica)
79年アメリカ発売盤 ヒットチャート上位にランクされる
平成18年初めて書きます。
一昨日本田竹広さんが亡くなりました。 享年60才。
ジャズ好きの間ではその名は広く知れわたっており、その突然の訃報にしばらく絶句してしまいました。
20才の頃ですからもう25年も前のことです。大学1年になった私は友人と一緒に「呼び屋さん」活動を手伝っていました。
人口17万程度の中堅地方都市である岩手県盛岡市で、ジャズ、フュージョン系のミュージシャンのコンサートを催し、会場手配からチケット販売まで手がける。大学の先輩方何人かが行きつけのスナックのママさん達と始めたというこの活動はジャズ系というマイナーなマーケットでのみ成立するもので、みなさんが想像する「コンサート」のような大きいものでなく公民館の200人程度の小ホールで行われるようなこじんまりとしたものです。
ジャズ系ミュージシャンのギャラは想像以上に安く、当時かなりのビッグネームであった本田竹広率いる「ネイティヴ・サン」でさえ確か20万円だったと記憶しております。会場は「岩手教育会館小ホール」。チケットを作るのですが今のようにパソコンがある訳ではないのであまりカッコいいものはできません。 市内のプレイガイドにおいてもらったり、ジャズ喫茶にポスターを貼ってもらったり。売れ残りを友人に頼み込んで買ってもらったり、近くの短大に売りに行ったりした思い出もあります。マイナーなジャンルの小さいマーケットゆえにできたことでした。「ネイティヴ・サン」は当時人気のジャズ系フュージョン・バンド。編成は本田竹広(key)川端民生 (alt sax)を中心に、Dr.G.Bassのリズムセクション。16ビートにのせて弾きまくる本田のピアノは、背筋がゾクゾクするほどの日本人離れしたものでした。
アフロ・ヘアーにヒゲという外見もあいまって、20才の若僧に強い衝撃を与えたことを、本田竹広の死はくっきりと思い出させてくれました。また、この10年は、脳梗塞で倒れること2度。片手にマヒが残る状態で必死にピアノに向かう姿は、かつての豪快なスタイルの時とはまた違う新たなファンを広げていました。私も1年ほど前に行きつけのクラブでライヴを聴き、その驚異的な回復力に、彼の音楽(仕事)に対する執念を感じたものでした。
その本田さんが・・・。享年60才でした。合掌。
デビューアルバムのA面1曲目。まさにこの曲!イントロからしてメチャ乗ってしまいます。この曲が岩手教育会館で演奏された時、そのドライブ感に失神しそうなくらい興奮したのを憶えています。後に自分(下島)のバンドでこれをやることになり練習したのですが、音は確かに同じなのにドライブ感がまるで違うことにガクゼンとしたことも。本田竹広ここにあり、の一曲です。
NATIVE SON「バンプ・クルージング」
◆NATIVE SON
1.Bump Crusing, 2.Heat Zone, 3.Breezin' & Dreamin', 4.Wind Surfing, 5.Whispering Eyes, 6.Twilight Mist, 7.Super Safari, 8.Whispering Eyes(reprise) Takehiro Honda(kbds,perc)、Kohsuke Mine(ts,ss)、Motonobu Ohde(el-g)、Tamio Kawabata(el-b)、Hiroshi Murakami(ds) DAMIAO GOMES DE SOUZA(cuica)
79年アメリカ発売盤 ヒットチャート上位にランクされる
最近のコメント